久米島守備隊住民虐殺事件

久米島上陸🚢
那覇から3時間。フェリーに揺られてやってきた久米島。人口7,000人ちょいってことは牛窓と同じくらいかな〜。探した中で1番リーズナブルだった『まったりんちゅ』と言う民泊スタイルの宿へ。到着したら男の子が待っていてくれて『何歳!?何月生まれ〜!?』『えー!同じ年!しかも同じ10月生まれ❗️』と意気投合。友達に飢え『早く岡山に帰ろう』としびれを切らしていたので大喜びの夜迦。すっかり仲良しになりずーーーーーっと2人で遊んでいた。
エメラルドグリーンの海、真っ白い砂浜✨✨この宝石の様な島にも、戦争は無惨な爪痕を残していた。

道なき道を行くと生い茂ったさとうきび畑にポツンと立つ石碑。そこには、
『天皇の軍隊に虐殺された 久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨の碑』と言う文字が刻まれていた。そして、その下に20名の名前が。
弔われているのは、沖縄戦時に日本軍に虐殺された住民や朝鮮半島出身者の方々。調べると、
【久米島守備隊住民虐殺事件】と記録されている。太平洋戦争末期の1945年沖縄戦終戦間際に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。
当時の責任者だった日本海軍通信隊の隊長であった鹿山正。彼が久米島に配属され、余りに残虐な手口で次々に住民を虐殺した。
米軍の捕虜となったのち、島民に投降を説いて回り、艦砲射撃をやめさせ多くの命を救った恩人とされる方も妻と2歳の乳児とともに殺され、家ごと焼かれた。その後朝鮮人の一家7人も殺害され。島民をスパイと決めつけ銃で殺し家を焼き払う。結局20人の島民が〝処刑〟された。
色々調べると以下の様な記事を見つけた。

『約1万2000人の住む久米島に駐屯した30人余りの鹿山隊は、食料・労務を全面的に住民に依存した。そこに上陸した1000人近くの米軍。鹿山は米軍を恐れ、住民を恐れた。自分は16才の少女を愛人にして逃げ回りながら、切り込みを実行しなかった部下を命令違反だとして処刑し、住民殺害をくり返した』

びっくりしたのは鹿山正のその後。彼は戦後故郷徳島県に帰り、何の罪に問われることもなく、農協の理事になり地域のリーダーとしてのうのうと暮らしたそうな。
たった1人の判断で狂わされた久米島。鹿山事件は国会でも度々取り上げられ、遺族に対する補償が議論されたが、不法な民間人殺害に対して不問にしたまま。戦後、どうして鹿山のような犯罪者を裁こうとしないんだろう。。。と、嶺也と2人で思いを巡らした。でも、考えてみたらそもそも大日本帝国の最大の戦犯、天皇が一切罪に問われることなく国の象徴に収まっているのだから。。。数々の戦争犯罪の解明・追究は戦後80年と言う月日でうやむやにされ、過去の記憶として忘れ去られていく。

海岸で無邪気に遊ぶ子どもたち。子どもだろうがなんだろうが、素朴に暮らす島民を見境なく死に追いやった恐ろしい時代。
あぁ。。。戦時中に生きていなくて良かった。。。と、ほっと胸を撫で下ろす訳にはいかない。ガザでは昨日、イスラエル軍の攻撃で少なくとも19人が死亡、36人が負傷。
世界の平和はまだまだ遥か遠い。