7歳か8歳の頃、姉の万葉と2人で沖縄へ行った。
昔はLCCも無いし、貧乏な私達は島を出る手段は船だった。ある日、奄美への帰りのフェリーで不思議な光景を見た。
フェリーが沖合を走っている時、薄暗い中全身びしょ濡れに濡れた男の人が、フェリーのタラップ(折り畳まれた階段部分)に1人佇んでいた。
そんな所に人がいるのも、全身びしょ濡れなことも、その服装が茶色い作業服の様な格好で見慣れないことも。。何よりも薄暗い中、目だけがギラギラとコチラを見ていて、子どもの私は少し怖かったことを覚えている。
姉の万葉を呼び、『あんな所に人がいる!!』と一緒に心配しながら眺めていた。そのうち沢山の人が甲板に集まりなんだなんだと騒ぎ始めた。
それからの記憶はおぼろげ。家に帰り、母親のミオに『すごい人がいた。きっと海からあがってきた!ボロの作業服の様なのを着て、階段に立っていた!すごいよね。新聞に載ってない?海から上がってきたなんてきっとすごいニュースだよ!』と興奮して話す私に、『それは人間じゃ無いよ。きっと幽霊じゃないかなぁー?そんな所に人は立てないでしょ』と。
そんなことはない!と憤り、万葉に一緒に見た光景をミオに話そう!と言ったら『何ウソついてるの?そんなことあるわけないじゃん』と一点張り。『そんな人見てない』と冷たくあしらわれた。万葉は全く記憶にない様だった。すっかり嘘つき呼ばわりでしょげていた私に、ミオは『宇摩が見たのは対馬丸で沈没した霊かもしれないよ』と言う。「あゝ学童疎開船対馬丸 : 記録と証言」と言う本を見せてくれ、沖縄戦の時にこんなことがあったんだよ。あんたたちがよく泳ぎに行くふのし(船越)に沢山の遺体があがり、生存者も流れ着いたらしい。そんな話を聞いた。


それが1944年8月21日太平洋戦争中に沖縄の学童を乗せ長崎へ向かう予定だった疎開船、学童ら約1700人を乗せ、奄美大島沖で米潜水艦の魚雷で沈没し、1400人以上が犠牲となった『対馬丸』を知った最初だった。
多くの遺体とわずかな生存者が、宇検村の船越海岸や枝手久島、大和村、瀬戸内町の海岸などに漂着したというのも後に聞いた。
ふのしはとてもキレイな浜辺で、みんなでおやつやお弁当をリヤカーに乗せ、よく泳ぎに行っていた大好きな海岸。
そう言えば私の住む久志集落にも生存者を助けたおばあがいた。とても身近な沖縄戦。
昨日は那覇市にある『対馬丸記念館』を尋ねた。
https://www.tsushimamaru.or.jp

受付の方に宇検村の出身だと言うと、色々詳しい資料をくださり、話も聞かせてくれた。
ここで知った事実。救助された人々は、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁止された。それによって身内は自分の家族がどこでどの様になったか?長い間知ることができなかった。
もう一つの衝撃の事実。対馬丸を撃沈したBOWFIN(ボーフィン)を現在、ハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に実物が展示されていると言うこと。


海に沈んだ対馬丸と、台風の中大海原に投げ出された沢山の命。戦争は容赦なく幼い子どもたちの命も奪っていった。
私の見た霊は乗組員だったのかな?40年経った今でも、あの悲しい目を覚えてる。
