SHIMAUTA OF AMAMI
楽器の特徴と歴史について
南方に浮かぶ奄美諸島独自の民謡群「奄美の島唄」は、独特の高音の歌声と三線による弾語りが特徴
美しい大自然に囲まれ、育まれた島唄は、どこか哀愁やわびしさを感じさせるものが多い。その背景には、奄美がたどってきた壮絶な歴史があった
奄美の島唄とは?
日本の南方海上にある奄美諸島は、「島唄」と呼ばれる独特の民謡を発展させてきた地域でもある。
島唄は、日本本島の民謡では「逃げ」として避けられる裏声による発声を多用し、三味線よりもずっと小ぶりで胴に蛇皮を貼った三線と呼ばれる楽器で演奏される。島唄のシマとは、奄美において「集落」や「生まれ育った故郷」を意味する。島民たちにとって、島唄とは日々の暮らしにとってなくてはならないものであった。
島民の暮らしと、島唄
奄美では、冠婚葬祭の催し物にすべてと言っていいほど歌がつく。祝いの席では最初と最後に必ず島唄が弾語りされ、近親者が亡くなったら死者の霊を慰めるために墓前で歌が唄われる。お祭りでは、集落の老若男女が太鼓のリズムにのせて、一晩中踊りながら歌を掛け合う。日常生活でも、島民同士が集まる会議では最後はやはり歌で終わり、夫への不満を直接言えぬ妻は、夫に聞こえるように心のうちを歌にのせて唄ったりもする。これら即興的に唄われる島唄がある一方、古くから唄い継がれてきた島唄もある。日本本島の民謡は仕事歌が多いのに対し、これらの島唄は生きる悲しみや怨嗟の歌などが多い。これには、奄美が辿ってきた歴史が多いに関係している。
豊かな自然と海洋交易
奄美は、海に囲まれた海産資源が豊富な地域である。古代から人が住みつき、彼らは生命や豊穣の源として海への信仰心を持ちながら漁猟採集生活を営んでいた。また磨くと真珠のように輝くヤコウガイなどの海産物を、日本本島や中国などの近隣諸国と交易して栄えていた。
琉球王朝と薩摩藩による支配
豊かで穏やかな奄美の暮らしは、他国からの侵略によって暗転していく。まずは1450年頃、海洋交易のライバルであった琉球王朝によって征服され、奄美は自由に交易ができなくなった。さらに1609年には、日本本島の南端を支配する薩摩藩が琉球王朝に軍事侵攻し、奄美諸島を割譲させた。薩摩藩は、海上交易の利益を独占するため大型帆船の製造を禁止し、島民は自由に島々を往来できなくなった。さらに、1690年には製糖を目的とするサトウキビの栽培を奄美諸島に導入。砂糖の価値が上がるにつれ、自給自足の暮らしを無視して水田をつぶし、サトウキビ畑を拡大して栽培を島民へ強制した。他の地域の何倍も重い税を課し、また米や日用品も高値で買わせたことによって島民たちは極貧状態に陥り,常に死と隣り合わせの生活が強いられた。
第二次世界大戦による戦災と、米軍による占領
時代が変わり、奄美諸島は日本国へ正式に編入されて薩摩藩との従属関係はなくなるも(1879)、収穫されたサトウキビは特定の商社による専売が続き、島民たちの過酷な生活が改善されるまでに長い時間を要した。
第二次世界大戦では、奄美大島の中心地が大規模な空襲に襲われ焼け野原となり、また子供や女性、高齢者を日本本島へ疎開させる途中の船がアメリカの潜水艦に撃沈され、約150名もの島民が犠牲となる悲惨な事件もおきた。
戦後になると、奄美諸島はアメリカの支配下に置かれ、日本本土への渡航は禁止された。日用品、そして食糧は極端に不足し、欠食児童の増加が社会問題化した。人々は生き抜くために密航によって砂糖を奄美の外へ持ち出し、生活必需品と交換した。このような過酷な状況から、奄美ではデモ行進やハンガーストストライキなど全島民をあげての日本への復帰運動が頻繁におこり、1952年に日本へと返還された。
参考文献
・麗純雄「奄美の歴史入門」南方新社.2011
・中原ゆかり「奄美の『シマの歌』」弘文堂.1997
・仲宗根幸市「『しまうた』流れ」ボーダーインク.1995
・南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
写真引用元
3.南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
4.南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
5.「奄美大島探検マップ」より
6.「服部隆幸 旅の寄り道」より
7.「奄美大島探検マップ」より
8.「MIRACLE NATURE@奄美大島の自然」より
9.「歩きすと とうだひでひとの奄美探訪」より
10.「チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史」より