父、ポンの大親友であり、パートナー嶺也の大先輩(大学の)でもあり、私の大好きな人でもある尚。
本当にカッコよくて面白くて、笑顔が可愛くてたまらないおじちゃん。山ほど本を書き、でも竹細工の達人という本当に楽しい面白い肩書き🤣
保養の時も前島まで応援に来てくれたなぁ。そもそも尚が繋げてくれた縁で嶺也と出会い、夜迦が生まれたんだから、恋のキューピッドじぃだよ💓
そう思ったら尚って私の人生にすっごい大きな影響与えてくれてる!!
癌になったりしていっときは心配だったけど復活❣️明日は講演会があります。
オンラインで聞けるのでぜひ♫
稲垣尚友(竹大工・民俗研究家・トカラ塾塾頭)
1942年東京生まれ。亡父の影響で何となく外交官を目指し、灰色の受験勉強の日々を過ごす。しかし22歳の時それまでの生き様に疑問を感じ、本当の人間の暮らしを求めようとするあがきの中、土方・行商などをして日銭を稼ぎながら全国を放浪する。その中で南島の魅力にとりつかれ、生涯のフィールドとなる鹿児島県トカラ列島にたどり着く。
当初、何とか島と関わっていこうとする手段としたのが、土地の方言・地名・習俗を収集したものをガリ版本とし、その言葉を島の人々と共有しようとする試みであった。1970年に無人島となった同列島臥蛇島の最期を見届けた後、東隣の平島で本格的に定住生活を始め、記録・観察の対象をそこに生きる人々に定める。ところが島のありのままを記録しようとした文章は図らずも島自身から強烈な反発を受け、住み始めて13年後、強烈な逃亡者意識を抱きつつ島を後にすることになる。35歳の時熊本の人吉盆地で竹細工職人に弟子入りし、のち千葉県の鴨川で籠屋をひらく。離島から17年後再び島を訪れ、以後島の記録を再開する。
籠屋としてはその作品が高い芸術性を評価される一方、自らを「平成賤民」と称し、さながら中世の渡り職人のように各地を遍歴し、日用品の製作を行っている。ライフワークである平島の記録においては、徹底して視線を地べたに置き、対象と密着するその姿勢は民俗学・文化人類学における最先端の動向と同じくするものがあり、稲垣学講座が千葉大学に開設されるなど、生きながらアカデミズムの側から研究対象となった。
これだけ多芸で才能豊かなアーチストの宿命なのかフツーの人から見ればどのようにチャンネルを合わせたらよいのか迷う者も多いのだろう。路上を歩けばお巡りさんから「とりとめもなく歩いていた」事が理由として呼び止められ尋問されることしばしばと言う。(橋爪太作 記)