津軽三味線の歴史

中国の「三弦」が琉球を経て、大阪の境港に流入したのは15世紀半ば。
三味線は、日本史に燦然と輝く江戸の町民文化を支え、
一方で、世間から見放された放浪の旅芸人たちの芸をも支えた。
あらゆる人間の生き様が刻まれた、450年にわたる「津軽三味線」誕生の歴史。

概要

津軽三味線は、津軽地方(現在の青森県西部)で成立した三弦の弦楽器。16世紀ごろに流入して日本の近世音楽文化を担った三味線とほぼ同じ構造をしているが、より大きな音を出すため棹は太く大柄に、より技巧的な速弾きに適用するため撥は小ぶりとなっている。
奏法的には、撥を胴に叩きつけるように弾く打楽器的奏法や、左手の細かい運指によってテンポが速く音数の多い音をつくりだす技術、一番太い一の糸を多用した低音領域の活用など、これまでの三味線音楽にはない様々な工夫がこらされている。
また楽器が担う音楽的な役割も、三味線が歌や語りの伴奏がメインであったのに対して、津軽三味線は、その音色だけを聞かせる独奏楽器としても発展をとげた。これは三味線のみで演奏される民謡の前奏部分が独立していったためである。

近代にはいって急速に衰退した三味線音楽とは相反して、津軽三味線は現代の音楽文化に広く受け入れられており、毎年津軽三味線全国大会や世界大会が行われるなど、伝統楽器の中では幅広い層に受け入れられている楽器である。

1.津軽三味線奏者と有名なバンドやお笑い芸人とがコラボし、アルコール飲料のCMソングとなった

津軽三味線の歴史

琵琶法師から三味線へ

弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後形を少しずつ変えながらインドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。これがまず琉球にもたらされ「三線」となった。そして、三線が当時の日本の貿易の窓口であった大阪の堺にやってきたのは16世紀半ば。三線を日本独特の三味線へと改良したのは琵琶法師(※)であると言われている。彼らは水牛の角で作られた爪(ピック)を琵琶と同じような銀杏の葉の形をした撥に置き換え、その撥にも耐えられるように胴面の蛇皮を猫の皮に変えるなどの改良をほどこし、江戸時代中期(1700年頃)に日本独特の三味線が生まれた。
琵琶法師とは、10世紀頃に現れた盲目の僧で、すでに日本に存在していた弦楽器「琵琶(中東のウードが原型)」の伴奏にあわせて物語を語り、また仏教の経文を唱える放浪芸能者

②薩摩琵琶

2.薩摩琵琶

③三線

3.三線

④三味線

4.三味線

オリジナリティ溢れる近世芸能文化の出現

三味線が誕生した江戸時代は、日本独自の芸術文化が隆盛を極めた時代であった。政府が鎖国政策をとったことでオリジナリティ豊かな文化の醸成がすすみ、また平和な時代が続いたことから上流階級である武士に代わって商人たちが力をつけ、文化の担い手となった。生活にゆとりをもった商人層の出現によって、芸能の在り方も変化した。それまでは貴族や武家など少数のパトロンによる庇護のもとで育まれてきた芸能が、見物者から観覧料をとる興行形式へと変化した。これによって芸能は、商人たちのめまぐるしい趣向の変化に対応するため、新機軸をもった新たなジャンルの創出や質の向上を常に求められるようになった。

このように文化の受容層の裾野が広がり、芸能市民生活とが密接に結びついたことによって多様な芸能が一気に花開いた。そしてそれを音楽面で支えたのが汎用性を持つ三味線であった。

⑥歌舞伎の劇場内

5.歌舞伎の劇場内

近世の芸能を支えた三味線音楽

6.江戸文化を創造した三味線音楽の各ジャンル

上の図のように三味線音楽が用いられた芸能はとても多岐にわたり、それぞれのジャンルごとに本が出版されるほど奥深い世界である。そしてそこで用いられた三味線も、各芸能に適した多種多様な旋律や奏法の特色が打ち出された。主なもので言えば、歌の伴奏、語り部の話にアクセントをつけるリズム楽器的な演奏、舞台芸術では役者の舞踊のための伴奏や劇的な演出を高めるBGM的な演奏などである。また尺八や琴などの他の楽器とのアンサンブル音楽も発展していった。

それぞれの芸能ジャンルがめまぐるしく発展していく中で、三味線音楽もともに発展していった。たとえば、歌舞伎のためにつくられた三味線主奏の歌曲「長唄」というジャンルは、歌舞伎の中で磨かれたことで一つの独立した音楽ジャンルとして確立し、純音楽として上演されるまでとなる。そして長唄の三味線は稽古事として家庭内で楽しまれる音楽にもなった。

さらに三味線音楽は遊郭にも持ち込まれ、「お座敷芸」として独自のジャンルを生み出すほど発展して客を持てなす芸者の芸の一つとなるなど、多方面において江戸の文化面を支えた。

人形浄瑠璃(文楽)・・・太夫(語り部)と三味線方と人形遣いの三者が一体となって物語を進行させる人形劇

7.人形浄瑠璃(文楽)・・・太夫(語り部)と三味線方と人形遣いの三者が一体となって物語を進行させる人形劇

⑦歌舞伎・・・演劇と舞踊、そして邦楽器による音楽が三位一体となり、様式美でまとめられた総合舞台芸術

8.歌舞伎・・・演劇と舞踊、そして邦楽器による音楽が三位一体となり、様式美でまとめられた総合舞台芸術

明治維新と三味線音楽の衰退

三味線は、伝来してから明治までの300年の間、日本を代表する楽器として様々な場面で近世の文化を支えてきた。しかし、その様相は明治維新によって一新する。江戸幕府を倒した新政府は、欧米諸国と肩をならべるため、産業や軍隊の近代化や、制度・習慣・文化などあらゆる分野の欧化政策を急速に進めた。
このような政策の背景には、欧米諸国による世界の植民地支配が進んでおり、近代化を急がなければ日本も植民地化されるという強い危機感、そして欧米諸国に比べて日本は遅れた国であるという劣等意識があった。

明治初期に始まった本格的な西洋音楽の流入

9.明治初期に始まった本格的な西洋音楽の流入

三味線音楽の世界にも、欧化政策の波は押し寄せた。新政府は、三味線は遊郭の芸を担う不潔な楽器であり、また江戸時代の身分制に強く結びついたものであるとして因習打破の対象とみなすようになった。文化や教育界から三味線に関するものは取り除かれ、そのかわりに西洋音楽が盛んに導入された(※)
この西洋音楽偏重の流れは現代まで一環して続いており、小学校の音楽教育は西洋楽器の演奏や外国民謡の唱歌を中心に構成されており、生徒たちは特別な機会がない限り三味線をはじめ和楽器に触れる機会はなくなった。
※1879(明治12)年文部省に音楽取調掛(後に東京音楽学校,現在の東京芸術大学)が設置され,日本で本格的な西洋音楽が教育が始まった。

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文献に残されなかった津軽三味線の記録

江戸期に隆盛を誇った三味線音楽は、現代においては面影もないほど市民の日常生活とは無縁の存在となっている。このような潸々たる三味線音楽の中で、津軽三味線は唯一と言っていいほど現代社会の中で受容され、若手のアーティストたちを輩出し独自の音楽世界を発展させている。現代の日本人の感覚では、三味線の音色は聞いた事がなくても、津軽三味線ならどこかで聞いたことのある人が多いのではないだろうか。

しかし興味深いことに、300年前の三味線音楽については豊富な資料が存在するのに対して、この一世紀足らずの間に成立した津軽三味線に関して、誰がどのように発展させてたのか、文献らしいものはほとんど残されていない。口承によって伝えられている津軽三味線の生みの親「仁太坊」という人物も、名前が知れられることなくひっそりと亡くなり、そのお墓もどこにあるか分からない。

竹本義太夫(義太夫節の祖)

12.竹本義太夫(義太夫節の祖)

大阪超願寺にある竹本義太夫の墓

13.大阪超願寺にある竹本義太夫の墓

竹本義太夫(1651–1714)
農家の子として生まれるも、浄瑠璃の世界に入り、自らが立ち上げた竹本座が爆発的な人気を誇る。そのスタイルは「義太夫節」となって後世へと引き継がれていった。彼の場合、亡くなった年と月日まで正確に記録され、大阪の超願寺に墓所がある。

ボサマたちの命をかけた創作活動

なぜこのようなことになったのか。それは仁太坊をはじめ、津軽において三味線を弾いていた人たちは、「ボサマ」と呼ばれる盲目の門付け芸人(※)であり、彼らは身分的に最下層に位置する存在であったためである。そのため、彼らは身内から疎んじられる存在であった。
仁太坊は、生まれてすぐに病気で失明した。時代は江戸。政府は盲人の救済政策を設けていたが、身分制度がつよい封建社会において、小さな渡し船の船頭の子であった仁太坊は、その救済の対象外とされた。
仁太坊のように救済からもれた盲人の多くがボサマとなり、終生掘っ建て小屋に暮らしながら雪深い東方地方をひたすら歩いて旅し、三味線を弾いてわずかばかりの米をもらって生活していた。ボサマたちは地元の人たちからは乞食扱いされ、彼らが弾いていた三味線も乞食芸と見なされた。現に「津軽三味線」という名称自体この数十年の間に定着したに過ぎず、それまではずっと「ボサマの三味線」や「ホイド(乞食)の三味線」と呼ばれていた。
※門付(かどづけ)とは、日本の大道芸の一種で、門口に立ち芸を行って金品を受け取る形式の芸能の総称

しかし、津軽三味線は確かに彼らボサマたちによって三味線音楽から独立し、独特の音文化を作り上げた。技術的な発展は先述した通りである。
ボサマたちが追求したより大きな音、より高度な技巧。それはつまるところ他のボサマより目立ち、より多くの施しを得るためであった。津軽三味線の誕生は、政府から見放され、住民から見下されてきたボサマたちが三味線一挺によって生き残っていくための、文字通り必死の創作の結果であったのだ。

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14.「最後のボサマ」と呼ばれた高橋竹山

高橋竹山(1910–1998)
青森の農村出身。幼い頃に風疹をこじらせ失明し、ボサマから三味線と唄を習って、17歳の頃に門付け芸人となる。数多くの津軽民謡を三味線曲として編曲し、また津軽三味線独奏のレコードを出すなど、一地方芸に過ぎなかった津軽三味線を全国に知らしめた。
「最後のボサマ」と呼ばれた。

瞽女にみる盲目の旅芸人の記録

盲目の旅芸人の実像に迫るため、室町時代から昭和の中頃まで新潟地方を中心に活動していた「瞽女」と呼ばれる盲目の女性旅芸人のグループをみていく。彼女たちは三味線を弾きながら家々をまわって門付け芸をおこなっていた点でボサマと共通している。津軽三味線の始祖「仁太坊」も、津軽に巡業にきた瞽女の芸を聞き、始めて三味線を知ったと言う。
但し、瞽女の場合、多くは集団として高度に組織化されており、稽古場や旅先での宿泊先など、瞽女としての生活を支える基盤を有していたグループもあった。
※新潟の長岡を中心とする長岡瞽女の場合、トップである瞽女頭を中心に400名もの瞽女を抱え(明治の中頃)、瞽女頭は代々襲名されていくほど組織化されていた。

歌川広重 東海道五拾三次 二川 猿ケ馬場

15.江戸時代に浮世絵に描かれた瞽女

ボサマたちと同様、瞽女も多くが幼児期に病気になって失明した者たちで、7.8歳の頃に親方へと弟子入りし、数年後から門付けの旅に同行する場合が多かった。

新潟は日本でも有数の豪雪地帯として有名な地域。瞽女たちは、冬場は雪が少ない関東地域を目指し、衣服や日用品をつめた30キロにもなる大きな風呂敷包みを背負い、三味線を脇にかかえながら、雪深い急な峠をこえていく。遭難や事故によって命を落とす者も絶えず、目の見えぬ少女たちにとってどれほど過酷な旅であったかは想像に難くない。

夏旅で重い荷物を背にせっせと歩く

16.夏旅の重い荷物を背に歩く瞽女

田んぼ道を行く瞽女

17.左手を前の人の背中に触れながら歩いていた

目的の村につくと、荷物を置いた瞽女たちは晴眼者(あるいは少し視力のある瞽女)の手引きを先頭に三人が組になって家々をたずね、玄関口にて三味線を弾きながら物語やその土地の民謡などを歌い、門付けをおこなった。門付け一回の報酬は、新潟の農村だと茶碗いっぱいの米であることが通例であった。米は食べる分以外は袋にため、いっぱいになると換金した。

夜は、瞽女宿と呼ばれる民家の一室を間借りする。一般的には地域でも認められたそれ相応の家が瞽女宿を担い、親方たちの縁で古くからつながっていることが多い。瞽女たちは宿代を支払わないかわりに、瞽女宿に集まった地域の住民たちを前に演奏し、みなを楽しませた。テレビやラジオなどの娯楽がなかったこの時代、農村部の人たちにとって瞽女の芸は数少ない楽しみの一つであり、また各地方のことを聞くよい機会でもあった。

荷物を置いて門付けに向かう 1933

18.荷物を置いて門付けに向かう 1933

民家の玄関先に立って門付け.1973

19.民家の玄関先に立って門付け.1973

立弾きでの門付けスタイル.1970

20.立弾きでの門付けスタイル.1970

瞽女たちは、親方のもとで約20年の年季奉公を終えると、晴れて一人前として認められ、弟子をとることが許可された。瞽女たちは、稽古場がある本拠地にとどまり、婚礼や年始などの祝いの席にて演奏することもあったが、一年の多くを門付けの旅に出ていた。最後の瞽女と呼ばれる小林ハルさんの場合、9歳から73歳の60余年の瞽女生活の中で約50万キロを歩いたと言われている。

小林ハルさん、現役最後の瞽女唄.1973

21.小林ハルさん、現役最後の瞽女唄.1973

最後の高田瞽女の三人による語り物.1973

22.最後の高田瞽女の三人による語り物.1973

参考文献

・大條和雄「津軽三味線の誕生」新曜社.1995
・鈴木昭英「越後瞽女ものがたり」岩田書院.2009
・高橋竹山「津軽三味線ひとり旅」中央公論新社.1991
・田中健次「図解日本音楽史」東京堂出版.2008
・月溪恒子「日本音楽との出会い」東京堂出版.2010
・「日本の音楽」『別冊太陽』1991年 AUTUMN.平凡社

写真引用元

1.「キリン氷結」CM公式サイト
2.武蔵野音楽大学WEB楽器博物館
3.「イベント21」より(http://event21.co.jp/mus_002.htm)
4.武蔵野音楽大学WEB楽器博物館
5.「新版江戸三芝居之図」喜多川月麿画.国立劇場所蔵
6.田中健次「図解日本音楽史 p189」. 東京堂出版.2008
7.左.国立文楽劇場講演記録写真
7.右.2017年4月8日産経WEST
8.『勧進帳』文化デジタルライブラリー
9.「欧州管弦楽合奏之図」文化デジタルライブラリー
10.教育の世界を考えるブログ(http://www.iraqhealth.net/kyoiku-bunya/51.html)

11.茨城県古河市水海小学校ホームページ(http://mizuumi.koga.ed.jp/)
12.東京大学教養学部所蔵資料
13.大阪大発見(http://www12.plala.or.jp/HOUJI/index.html)
14「津軽三味線高橋竹山の世界(CD)」
15.「東海道五拾三次 二川 猿ケ馬場」歌川広重.文化遺産オンライン
16.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.40」岩田書院.2009
17.市川信夫所蔵
18.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.103」岩田書院.2009
19.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.40」岩田書院.2009
20.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.39」岩田書院.2009
21.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.32」岩田書院.2009
22.鈴木昭英「越後瞽女ものがたり p.76」岩田書院.2009