南方民族特有の明るい気質と、透き通った海に囲まれた大自然
落ち着いた三線の音色にのせて、ゆったりと歌われる沖縄民謡
島民たちの暮らしは、いまでも三線とともにある
沖縄は、アジア屈指のリゾート地として急速な発展を続ける一方で、
日本政府、そして米軍基地に翻弄され続けてきた歴史をもつ
沖縄の概要
沖縄は、台湾と日本本島の間に浮かぶ 150 以上の島々から構成されている。近年、海外からの観光客も急増しており、2017年の観光者数は939万人でハワイを越えてアジア屈指のリゾート地として人気が高まっている。
現在は日本の領土の一部であるが、1429年から450年の間、琉球王朝としてあたり一体の群島を統べる独立国家であった。その時代は、周辺の国々とひろく交易をおこない、中国大陸や日本、そして東南アジアの影響を受けつつ、独自の文化を築き上げた。1609年に薩摩藩(日本の封建領主島津が統治する領域)の軍事侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入り、1872年に新しく日本に樹立した明治政府によって正式に日本国へと編入された。
琉球の精神
海に囲まれていることから琉球列島には、日本本土にはない「ニライ・カナイ」への信仰がある。ニライ・カナイとは、海の彼方や海底にあるとされる理想郷であり、豊穣や生命の源であった。また琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、ニライ・カナイは祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。沖縄では、豊穣の神をニライ・カナイより迎える儀式など、四季折々の生活の中で祭祀が営まれてきた。
二種類ある沖縄の民謡
沖縄の民謡は、大きく二種類に大別できる。一つは日本本土の民謡と同じ、庶民の生活の中から自然発生的に生まれ、口承によってうたい継がれてきたもの。これらの中には、祭祀の場における神と人間との語らいの中から生まれた歌謡群もある。もうひとつは、琉球王朝時代に上流階級によって創造された宮廷歌謡で、重厚でゆったりとした旋律を特徴としている。民謡は基本的に独唱か手拍子によって歌われるが、宮廷歌謡は「三線」と呼ばれる楽器が伴奏に用いられる。宮廷歌謡は、朝貢関係を結んだ中国からの使節を歓待する際に演奏されるなど、外交上も重要な働きを持っていた。両者は厳密に別れていたわけではなく、双方向に取り入れ合いながら発展していき、現代において沖縄の民謡といえば、三線による弾語りを意味する。
三線について
一地方民謡であった沖縄民謡は、現代においても有名ミュージシャンにカバーされ、また現代風にアレンジされた沖縄民謡調の曲がヒットするなど、一つの音楽ジャンルとして発展を続けている。明治時代以降に急速に衰退していった三味線音楽とは雲泥の差である。
三線と三味線。なぜ両者はこれほどまでに運命を異にしたのか。
もともと、三線も三味線も原型は中国で成立した三弦である。沖縄は、日本本土よりも早く15世紀頃に三弦が流入し、三線となって前述の通り上流階級の宮廷音楽を担った。以来、そして三線は上流階級である武士の必須の素養となっていった。一方で大阪の境港にはいった三弦は三味線となり、庶民の娯楽芸術と深く結びつき、さらに宴席・赤線などにおける芸として発展していった。
運命の分かれ道は、江戸幕府が倒され、明治新政府が樹立した1868年。新政府を担った武士階級によって不潔なものとされた三味線は多方面にわたって排除されていったが、沖縄の三線はもともと武士のものであり、また中央政府より遠く隔たっていた地理的な環境により難を逃れた。また琉球王朝の解体に伴って、宮廷歌謡や三線は民衆の間に徐々に広まっていき、現代の沖縄では、奄美と同じようにことあるごとに三線による弾語りが演じられ、三線は沖縄人のアイデンティティとも言える存在になっていった。
奄美との違い
沖縄の三線と奄美の三線はほぼ同じ形をしているが、演奏方法や音色、そして歌い方が大きく異なる。沖縄の三線は水牛の角でつくられた爪でなでるようにゆったりと弾かれ、低めの調弦にのせて地声で無理なく歌われる。これは沖縄の三線が、武士、つまり裕福な男性のための楽器であったことが大きく起因している。
一方で、奄美の島唄は、竹の撥で叩くように弾かれ、細い弦で奏でられる高い音域の曲を男性も女性も裏声を多用して歌う。これは奄美において三線は、貧しい民衆たちの喜怒哀楽の表現手段として用いられてきたためであり、男性も女性のキーに合わせて高音で歌うのは霊的にも文化的にも女性の地位が高かったためではないかと言われている。
その他には、沖縄の民謡は琉球音階という独特の音階によって作曲されていることや、記譜法も、奄美や日本本土とは異なり、工工四(くんくんしー)と呼ばれる漢字で書かれた楽譜を使用しているなどの違いがある。
沖縄のいま
沖縄はアジア有数のリゾート地として発展を続ける一方で、在日米軍基地(※)の集中という大きな問題を抱えている。
歴史を振り返ると、第二次世界大戦において、沖縄は日本で唯一大規模な地上戦がおこなわれた地域であり、この戦闘によって94,000人の民間人を含む約20万人の日本人が亡くなり、連合軍側も約2万人の死者をだした。亡くなった民間人は連合軍による無差別な攻撃によるものだけでなく、捕虜になることを禁止されていたために集団自決に追い込まれたり、スパイの疑いをかけられた住民たちが日本兵によって殺されるなど、犠牲者はふくれあがった。
1945年8月15日に日本が全面降伏すると、日本はアメリカを中心とする連合軍の占領下に置かれ、日本全国、とりわけ地理的な優位性から沖縄では多くの基地が建設された。またこの過程で、多くの農民が土地を強制的に接収された。
1952年に日本が主権を取り戻してからも沖縄はアメリカの施政下に置かれ続け、1972年になってようやく日本へと復帰した。しかし日本本土の米軍基地が沖縄に移転されるなど基地の面積は拡大していき、現在でも日本の総面積の0.6%の沖縄に、在日米軍基地の74%が集中するという不均衡な負担が続いている。米軍基地があることによって、飛行機やヘリコプターの墜落事故や、戦闘機などによる騒音、米兵による犯罪、基地による経済発展の妨げなど様々な問題が生じている。
政府は、普天間基地を”移設”するために、現在名護市辺野古にて新基地の建設を進めている。しかし、この新基地は普天間基地にはない巨大な軍港や弾薬庫などを備えた最新鋭のものであり、県民たちは基地の固定化につながると反対している。また埋め立てられる大浦湾は、世界最大規模のサンゴ礁地域であり、環境的な負荷も心配されている。
現在は新基地建設に反対の立場をとる沖縄県知事が先頭に立って日本政府に抗議を行うも、建設をとめることはできていない。
※1951年にアメリカとの間で調印された協定に基づき、日本国内には在日米軍基地が多数存在する。しかし、日本の国内法が米軍に適用されない、航空法に定められた最低安全高度(市街地300メートル)が米軍機には適用されないこと、日本政府に米軍の訓練・演習を規制する権限がないことなど、その不平等性が問題となっている。
参考文献
・仲宗根幸市「『しまうた』流れ」ボーダーインク.1995
・南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
・沖縄県公式ホームページ
・日本経済新聞2018年5月1日
・毎日新聞
写真引用元
2.3.朝日新聞「よみあげる沖縄1935」
4.沖縄島ガール
5.がじゅMarine
6.首里城公園
7.一般社団法人伝統組踊保存会
8.日豪プレス オーストラリア生活情報サイト
9.郵船クルーズ株式会社
10.三線 (SANSHIN KUNKUNSHI)
11.藤本琇丈民謡選集
13.毎日新聞2012年05月02日
14.15.NHK「第1回沖縄“焦土の島”から“基地の島”へ」2013年7月6日
16.沖縄タイムス2018年5月2日
17.NHK「沖縄と核」2017年9月10日
18.沖縄県公式ホームページ
19.Ti-Da