奄美の島唄について

日本の南方に位置する奄美で発達した独自の民謡群「奄美の島唄」
独特の高音の歌声と、三線による弾語りが特徴
美しい大自然に囲まれ、育まれた島唄は
どこか哀愁やわびしさを感じさせるものが多い
その背景には、奄美がたどってきた壮絶な歴史があった

鹿児島県と沖縄の間に位置する奄美諸島は、「島唄」と呼ばれる独特の民謡を発展させてきた地域でもある。奄美の島唄にルーツをもつ歌手としては元ちとせ中孝介などがおり、また毎年開催される全国民謡大会では、全国的に見ればマイノリティーである奄美の島唄の歌い手がたびたび優勝するなど、日本の歌謡界においてひとつの特異点となっている。

島唄は、日本本島の民謡では「逃げ」として避けられる裏声による発声を多用し、三味線よりもずっと小ぶりで胴に蛇皮を貼った三線と呼ばれる楽器で演奏される。島唄のシマとは、奄美において「集落」や「生まれ育った故郷」を意味する。島民たちにとって、島唄とは日々の暮らしにとってなくてはならないものであった。

1.長女蓮津の囃子と山羊皮だいこにのせて

1.長女蓮津の囃子と山羊皮だいこにのせて

2.家族で行った奄美

2.家族で行った奄美

奄美の暮らしと島唄

奄美では、冠婚葬祭と名のつく催し物にはすべてと言っていいほど歌がある。祝いの席では最初と最後に必ず島唄が弾語りされ、近親者が亡くなったら死者の霊を慰めるために墓前で歌が唄われる。また、「八月踊り」と呼ばれる一年に一度のお祭りでは、集落の老若男女が太鼓のリズムにのせて、一晩中踊りながら歌を掛け合う。

日常生活でも、島民同士が集まる会議では最後はやはり歌で終わり、夫への不満を直接言えぬ妻は、夫に聞こえるように心のうちを歌にのせて唄ったりもする。また、若い男性が意中の女性を口説くため、夜更けに家の外から恋歌をうたいかけ、女性がそれに歌でかえすような文化が最近まで残っていた。

即興的に唄われる島唄がある一方、古くから唄い継がれてきた島唄もある。日本本島の民謡は仕事歌が多いのに対し、これらの島唄は生きる悲しみや怨嗟の歌、海への豊穣を祈願する信仰歌などが多い。これには、奄美が辿ってきた歴史が多いに関係している。

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3.宴会では島唄はつきもの

2.八月踊りの様子

4.八月踊りの様子

奄美大島が辿ってきた歴史

豊かな自然と海洋交易

奄美は、海に囲まれた海産資源が豊富な地域である。古代から人が住みつき、彼らは生命や豊穣の源として海への信仰心を持ちながら漁猟採集生活を営んでいた。また磨くと真珠のように輝くヤコウガイなどの海産物を、日本本島や中国などの近隣諸国と交易して栄えていた。

3.奄美北部の島並を見晴らす眺め

5.奄美北部の島並を見晴らす眺め

4.手つかずの原生林が残る

6.手つかずの原生林が残る

琉球王朝と薩摩藩の支配

豊かで穏やかな奄美の暮らしが暗転していくのは、奄美大島より南に位置する琉球諸島を統治する琉球王朝によって1450年頃に征服されてからである。海洋交易のライバルであった琉球王朝の支配によって、奄美は自由に交易ができなくなった。さらに1609年に九州地方南部を支配していた薩摩藩が、琉球王朝に軍事侵攻し、奄美を割譲させ直轄領とした。薩摩藩は、海上交易の利益を独占するため大型帆船の製造を禁止し、島民は自由に島々を往来できなくなった。さらに、1690年には製糖を目的とするサトウキビの栽培を奄美諸島に導入。砂糖の価値が上がるにつれ、自給自足の暮らしを無視して水田をつぶし、サトウキビ畑を拡大して栽培を島民へ強制した。江戸時代後期になると、藩の財政悪化から奄美への搾取を強化。他の地域の何倍も重い税を課し、収穫されたサトウキビを島民が藩の管轄外で売買したら死罪という厳しい罰則をもうけ、さらに米や日用品も藩を通して高値で買わせた。島民たちは極貧状態に陥り,常に死と隣り合わせの生活が強いられた。

5.島全体にひろがるサトウキビ畑

7.島全体にひろがるサトウキビ畑

食糧難から、猛毒のあるソテツの実を発酵させて食していた

8.食糧難から猛毒のあるソテツの実を発酵させて食していた

空襲と米軍による占領

明治時代になり奄美は日本へ正式に編入され薩摩藩との従属関係はなくなるも、収穫されたサトウキビは特定の商社による専売が続き、島民たちの過酷な生活が改善されるまでに長い時間を要した。
第二次世界大戦では、中心地である名瀬市などが大規模な空襲に襲われ焼け野原となり、また子供や女性、高齢者を日本本島へ疎開させる途中の船がアメリカの潜水艦に撃沈され、約150名もの島民が犠牲となる悲惨な事件もおきた。
戦後になると、奄美諸島はアメリカの支配下に置かれ、日本本土への渡航は禁止された。日用品、そして食糧は極端に不足し、欠食児童の増加が社会問題化した。人々は生き抜くために密航によって砂糖を奄美の外へ持ち出し、生活必需品と交換した。このような過酷な状況から、奄美ではデモ行進やハンガーストストライキなど全島民をあげての日本への復帰運動が頻繁におこり、沖縄の返還より20年先駆けて1952年に日本へと返還された。

空襲後の名瀬市,1945.4

9.空襲後の名瀬市,1945.4

日本への復帰を祝う島民.名瀬市銀座通り

10.日本への復帰を祝う島民.名瀬市銀座通り

参考文献

・麗純雄「奄美の歴史入門」南方新社.2011
・中原ゆかり「奄美の『シマの歌』」弘文堂.1997
・仲宗根幸市「『しまうた』流れ」ボーダーインク.1995
・南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003


写真引用元

3.南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
4.南日本新聞開発センター「島唄の風景」南日本新聞社.2003
5.「奄美大島探検マップ」より
6.「服部隆幸 旅の寄り道」より