私たちの選択的無関心について 〜屠殺の実態に迫った映画「DOMINION」を見て

映画「DOMINION (支配)」を見ました。

2018年に制作された、オーストラリアの畜産業の裏側に迫ったドキュメンタリー映画です。

私たちが普段当たり前のように食している豚肉、牛肉、鶏肉。
その元となる豚や鶏などがどのような環境で育てられ、扱われ、そして殺されているかを映し出しています。
映画はYouTubeで無料公開されており、日本語の翻訳も選択できます.

映画の内容は、こちらのブログで丁寧に紹介されています。(https://pigumo.com/dominion/

2時間あまりの映画でしたが、頭がクラクラするほどの衝撃で、どっと疲れました。

そこには紛れもなく人間と同じような感情を持つ生身の動物たちがいて、喉元を掻き切られる前、失神させるためにガス室に閉じ込められる豚たち。ガスの濃度が高くなるにつれて狂ったように暴れまわって。殺された後、生き物から原材料に変わった豚たちは、専用に設計された大型の機械を使って効率的に、流れ作業によって処理されていました。

屠殺場で行われていることはなんとなく聞いていたものの、普段とりわけ意識するわけでもなく、それに関して調べようともしてきませんでした。
でも今回、たまたま家に滞在したビーガンの友人のために、食事を作ったりする中で、軽い気持ちで、そーいえば屠殺場ってどーなっているんだろうとネット検索してこの映画を知りました。

映画を見ている中で頭に浮かんだことは、
アメリカ大陸がスペインなどのヨーロッパ列強によって支配され、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが、アメリカ大陸のサトウキビのプランテーションでの労働を強制させられていたこと。
彼らは信じられないほどの過酷な環境で働かされ、使い倒されてゴミのように捨てられていきました。彼らの命の上の生産されていたサトウキビは砂糖の原料となり、ヨーロピアンたちのティータイムのお菓子に使われていました。

もっと甘いものが食べたい。たったそれだけの理由のために数え切れないほどの奴隷たちが酷使され惨めに死んでいきました。

この映画をみて、今の現状はそれと同じではないかと感じました。
美味しいお肉。それは生活には不可欠ではない嗜好品。人間が一瞬の快楽を感じるのと引き換えに、1日に何億もの家畜が無残に殺されている。
快楽の代償となるものがあまりに大きすぎるのではないか。

私は動物愛護者でもビーガンでもないですが、今私が置かれている状況は、200年前のヨーロッパ人たちと同じなのではないか。突き付けられました。
当時のヨーロッパ人たちも、推測ですが、おそらくなんとなく自分たちが食べているお菓子の砂糖が、黒人奴隷たちの犠牲によって生み出されていることは知っていたのではないかと思います。でもやっぱり甘いものは美味しいし、周りでそれを問題にする人もいないし、とりわけ気にかけない、無関心の状態でいたのだと思います。

でもそれは意図的に生み出されている心理状態なのではないか。

「DOMINION (支配)」は、その最後でこう言います。

「あなたはちょうど食事を終えたところだが、屠殺場は、注意深く、遠くにうまく隠されており、そこには共謀がある」

動物たちが無残に殺されていること、その動物たちは私たちと同じような感情を持った生き物であること。
それらの事実が、スーパーに陳列されている肉からは想像がつかないように周到に管理されているのでないか。この映画をみた直後は、もっと食べ物を大切にしなくては、なるべく肉を食べないようにと思う。でも時が経てばその意識は薄れるだろう。それは本人の問題ではなく、畜産業界などの業界団体が用意周到に、日常世界から屠殺の世界を締め出しているからではないか。

事実関係はわかりませんが、屠殺場の見学をしたいと思って見学可能な施設を探しましたが、一番近かった兵庫県加古川にある食肉センターは、それまで見学可能であったのに今ではそれはできなくなっており、見つけられたのは品川にあるセンターだけ。それも個人はダメで団体のみでした。生産者からしたら、食肉の意欲が落ちるこれらの施設の見学を拒むのはとても合理的に思えます。

また私たちたちの生活になくてはならない存在である豚や牛などの動物をもっと身近にかじるように、小学校で飼う動物がウサギではなく、これらであってもいいはずです。
でも豚や牛を飼っている学校がいくつあるでしょうか。畜産に関わる人たちは、豚や牛が私たち人間と同じ感情を持った生き物であることを私たちに感じて欲しくはない。これは考え過ぎでしょうか。

今は、インターネットが発達したこの時代。黒人奴隷がサトウキビ栽培を強いられていた時代とは、情報の入手のしやすさという点で大きく異なります。私がものの数分で屠殺の現状に関する情報を入手できたように、意思をもてば誰でもすぐに必要な情報は手に入るようになっています。

情報が身近に手に入るようになっても、それを進んで手に入れようとする人はまだまだマイノリティ。心理状態は200年前のヨーロッパ人と変わりがないように見えます。

なぜか。

それは私たちが考える意志を、自ら利害関係者たちに預けているからではないか。

前述の「あなたはちょうど食事を終えたところだが、屠殺場は、注意深く、遠くにうまく隠されており、そこには共謀がある」という言葉。
この共謀という言葉、畜産業界や小売業界など生産販売側の共謀、だけでなく、そこに加えて消費者との共謀という意味が込められいるのではないか。
畜産業者たちは意図的に情報を消費者から遠ざけ、消費者たちも意図的に情報から遠ざかるようにしている。もし知ってしまえば、自分のライフスタイルへ大きな変更を強いられるため、あえて深く考えないようにしているのではないでしょうか。
おそらく私もそうだったのだと思います。

この生産者と消費者の共謀こそが、この問題の本質であるように感じます。

そしてこれと同じ構図を持った問題が、福島原発事故による放射能汚染の問題だと思います。

政府関係者たちは、福島の原発事故をもう終わったことだとし、すでにデータとして出ている健康被害の実態や、実際は収束の糸口すらつかめていない原子炉の現状を私たちから遠ざけ、私たちも汚染の実態とそれが健康に及ぼすリスク、また今後天災が福島原発を襲った時に起こるであろう破局的な事故の想定などを考えると、どうしても今の生活を変えなくてはいけない。住む場所を変え、仕事を変え、食べるものを変えないといけなくなる。

とてもじゃないがそんなことはできない。だから進んで自ら考えることを受け渡す。

自戒も含めてそう感じます。

せとうち交流プロジェクト監事 渡辺嶺也