せとうち交流プロジェクト

せとうち交流プロジェクトは、

岡山県民と東日本からの移住者が一緒になって、

福島の子どもたちを保養に受け入れています。

※保養とは‥放射線量の高い地域から一定期間離れることで健康なからだを取り戻す、子どもたちのための合宿。1986年のチェルノブイリ原発事故の被害にあったベラルーシでは、約30年経った現在でも、年間約10万人の子どもたちが保養を受けています。

『2014年度のプロジェクトの様子』

 


『せとうち交流プロジェクト立ち上げの経緯』

2011年3月11日を境に、私の暮らしは大きく変わりました。夫と埼玉で津軽三味線教室を営みながら暮らしていた日々。子どもも二人生まれ、この日常がずっと変わらずに続いていくと疑いの余地なく思っていました。

そして唐突に現れたあの日。東京電力福島第一原子力発電所が水蒸気爆発を起こし、辺り一帯に放射能がばらまかれました。当時2才と5才だった娘たちへの影響を恐れて、地震から3日後の14日に、夫を残して妹と弟の家族の計9名で夜の高速道路を飛ばし、とにかく西へ西へと逃げました。これから先なにが自分の身に降り掛かってくるのか、子どもたちの将来はどうなってしまうのか。政府から流れてくる情報はどれも当てにできず、ただただ不安で車を走らせたのはいまでも鮮明に覚えています。

福岡の知人の家に居候させてもらった後、2011年の4月に岡山県西大寺の祖父の家に娘たちと共に引っ越しました。見知らぬ地で、始めての母子生活。なにもかもが分からないことばかり。周りの人たちに支えられ、公民館で津軽三味線教室を開講でき、演奏の依頼も少しずつ入るようになったものの、収入はなかなか安定せず、先の見えない不安がずっと胸にありました。

でも、私たちは幸運にも身一つで放射能から逃げてこられた。福島にはなにかしらの事情でその土地を離れられずにいる子どもたちが大勢いて、今もなお物理的にも精神的にも放射能によるダメージを受けながら暮らしている。その子どもたちのためになにかできることはないのだろうか。その想いは、岡山に避難しめまぐるしい日々の生活にのまれながらも、頭から離れることはありませんでした。そして、福島の友人からチェルノブイリ原子力発電所事故の際に、世界中で実施された「保養」の存在と重要性を聞き、福島から遠くはなれた岡山でなら、そしてここで新しく出会った人たちとなら実施できるのではと思い、2011年の12月に「せとうち交流プロジェクト」を立ち上げました。

福島の現状は時を追うごとに明るみになり、とても埼玉には帰れそうにない。娘たちと3人で生きていく覚悟を決め、翌年の1月に西大寺から瀬戸内市へと居を移し、ここ岡山で根をはやしながら、福島の子どもたちを招く保養キャンプの実現に本腰をいれて動き出しました。
プロジェクトに協力してくれる仲間を集い、会議を重ねながら宿泊先や保養期間中のプログラムなどを練り、同時に市への助成金の申請や、資金集めのためのライブや街頭募金を何度も実施しました。そして6月には、和太鼓奏者の乙倉俊さんや地元瀬戸内市の仲間たちと福島市と郡山市を訪れ、保養の呼びかけコンサートを行い、福島の人たちに直接参加を訴えかけました。

そして迎えた7月。仲間たちとゼロから手探りでつくりあげてきたものが、9泊10日の保養キャンプ「せとうち市へおいでんせぇ〜せとうち交流プロジェクト〜」として実を結び、福島から12家族39名の親子を瀬戸内市に招くことができました。市の補助金や多数の人からの寄付金もさることながら、地元の農家の方々からたくさんのお野菜やお米、果物の差し入れをいただき、また保養中は地元のお母さんたちが手料理を振る舞ってくださるなど、本当に多くの方々に支えられての開催でした。
同プロジェクトはその後も毎年継続して実施することが叶い、2014年までの3年間で約100名の方々を瀬戸内市へお招きすることができました。ご支援くださった皆様、この場をお借りして厚く御礼申しあげます。

福島では未だに放射能汚染により幼い命が日々脅かされています。しかし時が経つと忙しい日常生活に追われ、いつしか人は忘れてしまう。あるいは、忘れようとしているのかもしれない。

自然豊かな岡山の地で存分に外遊びをする、心身ともにリフレッシュをする「保養」には大きな意味があります。放射能で苦しむ人たちのための、岡山の地で私たちができることの一つがこの「保養」です。皆さんの限りない愛を、そして想いを、幼い子どもたちの命を守る力にかえてくださることを心からお願い申し上げます。

せとうち交流プロジェクト副代表 蝦名宇摩

ウェブサイト:http://setouchi-kouryu-project.com/

『2015年度のチラシ』

平成27年度PJポスター_FINAL3