26年ぶりの北海道の旅を終えて(旅日記)

12歳だった頃に仲間3人とヒッチハイクでまわった北海道。その後すぐにまた行こうと思っていたけれど、結局26年間記憶の中にとどめてしまった。
今回、子ども二人をつれて懐かしい知人たちに会いながら、思い出の場所で演奏をする旅をした。

長野県大鹿村にて

私が初めて北海道に渡ったのは1988年の夏だった。それが夏であったのには理由がある。のちに語り継がれることになる祭り「八ヶ岳88年いのちの祭り」がその年の8月8日に長野でおこなわれた。主催者発表の来場者数は8888名。真相は分からないが、それくらいの人が来たことはどうやら確からしい。ヒッピー系の祭りとしては後にも先にもこの規模で行われたものはない。ライヴステージには、「花」で知られる喜納昌吉や上々颱風、喜太郎などのビックネームが名をつらね、私も彼らと同じステージで踊った。
北海道へはこの祭りが終わった後に行こうと決めていた。新潟まで行ってそこからフェリーに乗るという計画だ。父ポンが新潟へ帰る人をステージで呼びかけてくれたおかげで車に乗っけてくれる人はすぐに見つかり、旅は始まった。

2015年の夏、偶然にも26年前と同じルートで北海道にいくことになった。北海道行きの日程をつめていたときにポンの旧友で大鹿村に住むスマコが、自身が企画する祭り「お山の上でどんじゃらほい」に三味線の演奏で呼んでくれたのだ。私たちは大鹿村で2泊した後に新潟発小樽行のフェリーに乗ることにした。

月並みな表現になってしまうが、私はこの祭りで三味線を弾けたことが純粋に嬉しかった。幼い頃はよくヒッピー系の祭りにいっていたが、16歳で修行に入ってからはめっきり遠のいてしまっていた。ポンの世界ではなく自分の世界を持ちたいと、心理的に遠ざけていたのかもしれない。そんな私が久しぶりに祭りに出て演奏したのは、2010年の「てのひら祭り」。その祭りは偶然にもポンの四十九日と重なり、仲間たちはティピの中に祭壇を用意してくれた。私はステージにたち、供養のためにと演奏した。
その翌年に震災が起こり、私は埼玉を離れ母子で岡山に避難し移住生活を始めた。そしてヒッピー系の祭りにも出るようになり、頼まれれば三味線を弾いた。
こうして最近になってようやく昔の仲間たちの前に出るようになったのだが、幼少期を共に過ごした同世代のヒッピー仲間や、ポンの娘ということで小さい頃からなにかと可愛がってくれた人たちの多くには、まだ三味線を聴いてもらっていなかった。この「お山の上でどんじゃらほい」には、そんな仲間たちがたくさん来ていたのだ。

ライヴの後、感動したと直接言いに来てくれた人が何人もいた。スマコの娘、沙姫(さあき)もその中の一人だった。彼女はライヴの始めから涙を流して聴いていた。沙姫は私とひとつ違い。私は奄美大島に住み、彼女は大鹿村に住んでいたが小さい頃からお互いによく行き来し、祭りで会うたびに一緒に遊んだ。
自由な生き方だと周りからはもて囃され、ときに貶されもするヒッピー二世という特殊な生い立ち。私たちは人にはなかなか理解されない苦労や辛さを味わってきた。
私には沙姫の涙の意味がよくわかった。そして涙を流すという形で私に共感してくれたことがなによりも嬉しかった。

その日の夜は、「せとうち交流プロジェクト」でもお世話になっている守田敏也さんを交え、原発による移住をテーマにティピの中で座談会をした。そして翌朝の3時に起きて、私たちは深いもやの中でしんしんと眠る夜の森を抜けて新潟へと向かった。

大鹿村にて
沙姫と


北海道平取町二風谷にて

北海道に着いてまず向かったのは平取町二風谷。そこに住む山道康子さん(アイヌ名:アシリレラ)を訪ね、彼女が毎年夏に主催する「アイヌモシリ一万年祭」に参加した。
山道さんはアイヌ活動家で「沙流川アイヌを守る会」を主宰し、二風谷ダムや平取ダム建設の反対運動の先頭に立ち、また血縁関係のない子どもたちを養子として何人も育てた。ポンの古くからの親友で、27年前にアイヌモシリ一万年祭を一緒に始め(といってもポンは会場でずっと酒を飲んでいただけだったと山道さんは言っていたが)、いまも変わらず続けている。

私はこの祭りの一回目に参加し、山道さんと出会った。祭りが終わっても私はしばらく二風谷に残り、彼女の自宅に居候してアイヌ刺繍やアイヌ語、アイヌの唄を習ったりした。まだ子どもであった私に、山道さんはアイヌ民族がたどってきた歴史などいろんな話をいつも真剣に聞かせてくれた。ときにはおいしいものが食べれるからと、近所のお葬式にも連れて行ってくれるなどとてもよくしてくれた。北海道で会うことはそれ以降なかったけれど、埼玉などでたまに会うと娘のように可愛がってくれた。

祭りの会場は縄文時代のアイヌの遺跡が発掘された場所で近くには墓地も残っており、つい最近までアイヌの村があった。普段は草に覆われているが、この祭りのために総出で草を刈っている。会場の脇には奇麗な川が流れ、子どもたちのかっこうの遊び場になっていた。
私たちの到着したあくる日が、祭りの初日だった。昼前から広場に設置されたテントの下で祭りを始めるための儀式が執り行われ、それが終わるとイモや行者にんにくを使ったアイヌの伝統料理などがたくさん振る舞われた。夕方からは遺された家屋を使って屋台が出はじめ、日が暮れかかると広場に大きなたき火が焚かれた。

私たちは人があまりいない静かなところを求めて、小川近くの茂みの上に登山用の小さなテントを張っていた。しかし夜になって雨が降りだし、このまま一晩中降ったら川へ流されてしまうのではないかと不安がよぎり、広場のすぐ横に止めてあった車で夜を越すことにした。車へ移ってしばらくすると雨は次第に小雨となり、人々はどこからともなく現れて、再び火を囲んで話したり歌ったりし始めた。私は子どもたちを寝かしつけ、屋台で行者にんにくのチャーハンを食べて眠りについた。
長女の蓮津が、夜中にたくさんの光を見たと言いだしたのは翌朝起きて間もなくだった。ひとの形をした白くて透明なうすい光が、20人くらい広場にいたらしい。みな一様に足がなかったと言う。
夜中、蓮津はなにかの光が顔をよぎったので目が覚めた。なんだろうと思って車の窓から外を見てみると、たき火があったところに白くて低い柱のようなものが立っていて、そのてっぺんで光が灯台のように反時計でまわっていた。灯台の奥の屋台にはひとの形をした光が何人かいて、お金のやりとりをしながらなにかを買っているように見えた。山道さんが眠る本部の前に置かれた椅子には茶色いヒゲをはやした光のひとが座っていて、そばにいる二人とおしゃべりしていた。蓮津には、それがこのひとたちの長老だとすぐにわかった。広場には灯台を指差して笑っている光のひともいて、音はまったく聴こえなかったと言う。
蓮津は顔をあげてその光景を見た瞬間「幽霊をみちゃった」とすぐに頭をひっこめた。夢じゃないことを確かめようと思ってもう一度見てみようとしたがもう怖くて見れなくなって、そのまま布団に顔をうずめて寝てしまったらしい。
この話を山道さんに伝えそびれてしまったが、きっと墓地に眠るこの地の先祖たちがたき火を合図に目覚めてきて、アイヌモシリ一万年祭を楽しんでいたのだろうと話は膨らんだ。

二風谷での最終日であるこの日は、朝いちで三味線のライヴをステージでおこなうことになっていた。山道さんにまだ私の音を聞いてもらったことがなかったので、前の日にお願いして急きょ入れてもらったのだ。音響がセッティングされるのを待っていたが、どうやら夕方にならないと準備が整わないみたいなので、生音でのライヴを決行した。
大自然の中で三味線の音色は奇麗に反響し、山から返ってくるこだまが気持ちよかった。演奏を聞きつけ観客は次第に増え、年寄りは間の外れた手拍子にのせ唄を口ずさみ、若者たちはふんどし姿で踊って会場は沸いた。蓮津が見た光のひとたちも、ひょっとすると二日酔いの頭を抱えながら三味線のリズムにのって盛り上がっていたのかもしれない。

演奏を終え慌ただしく荷物をしまっていると、山道さんが寄ってきて「来年もくるんだよ」と言いながら、イヤイライケレ(ありがとう)と書かれた即席の封筒をくれた。帯広に向かう車の中で、スーパーの広告でこしらえられたその封筒を開けてみると、中には5千円札が1枚と千円札が5枚入っていた。

山道さんと仲間たちと

26年前に山道さんの家の前で撮ったもの。私の左にいるのが父ポン


北海道帯広市にて

ヒッピー文化を知る人ならまず間違いなく知っている国分寺の「ほら貝」。その最後のマスターであるヒロのところへ遊びにいった。
子どもの頃、旅で東京によるたびにほら貝へとよく行った。ヒロは毎回ただでおいしいご飯をごちそうしてくれる。貧乏旅を続ける私にとって、それは本当にありがたいものだった。
ヒロはいつも私たち家族によくしてくれた。妹の維摩と弟の阿満がスペインの学校から帰ってくるための飛行機代がどうしてもなかったとき、父ポンに貸してくれた。ポンは何度もそのお金を返そうとしたのだが、最後までヒロは受け取らなかったという。
ヒロの家には、ポンの絵が額に入れてたくさん飾られていた。これだけの数のポンの絵を自分の家以外で見るのは初めてだった。画家であるポンは、きっとお金の代わりによくヒロに絵をあげていたのだろう。綱渡りのようなヒッピー生活を続ける我が家を、ヒロはずっと陰ながら支えてくれていた。

私が16歳のときに津軽三味線の修行に入ってからはもうほら貝へ行くことはなくなり、ヒロにも会う機会がなくなってしまった。ヒロはそのあと、母親の介護をするためお店を閉じ、実家がある帯広に引っ越した。
今回北海道への旅を思い立ったとき、ヒロの顔がすっと浮かんできた。久しぶりにとても会いたくなった。

ヒロは自宅で三味線ライヴを企画してくれた。近所の友人たちを招き、山菜のおひたしやテリーヌなど腕によりをかけた料理をふるまい、酔がまわってくると「宇摩、お前はもっと殻をやぶって大きくなれ」と昔と変わらない激励(説教)をくれた。

出発のとき、どこからか私の財布と2万円を持ってきて「俺は今日アイヌモシリにいくから交通費で5千はいる。のこりの1万5千はお前の交通費にすればいいからつりをくれ」とよく意味の分からない理屈で私にお金をくれた。

私はどこか懐かしい気持ちになった。

ひろの家の前でポンの友人しゅうこと


北海道滝上町滝西にて

滝西へは、1983年から「森の子どもの村」を開催するおじじとおばばを訪ねにいった。彼らは元々、横浜にある実家で子どものたまり場のような本屋「ひまわり文庫」を開いていた。そして、「子どもの村がほしいという子どもたちの願いを実現」するために北海道へ移住し、子どもが主体となって遊び、学び、暮らす「森の子どもの村」を滝西の熊出の森で始めた。はじめのうちは集落の中に仲間や子どもたちと住み森へ通っていたが、1991年からは、森の中で電気やガス、水道がない暮らしをしている。

子どもの村との縁は、10歳の頃までさかのぼる。奄美大島の小学校を兄弟たちと一緒にやめた後、私は母であるミオと共に日本中のフリースクールをめぐる旅をした。その旅の途中でミオが森の子どもの村のことを聞いたのだ。
そのときは行けなかったがいつか行きたいとずっと思い、ミオと旅をした2年後に姉である万葉と、旅仲間のまりちゃんと一緒に3人で遊びにいった。
子どもの村に行くのは、それ以来だ。
出会った何人かとは会ったり文通したりしたが多くの人とはそれっきり。だからみな私のことは忘れていると思っていたが、そんな憶測とは裏腹にたくさんの人が覚えていてくれた。夜にキャンプファイヤーの前で踊ったことが印象的だったらしく、踊った曲名まで覚えている人もいた。その夜のことは、私もよく覚えている。
旅のときにいつも持ち歩いていた手作りの衣装を着て、「パッヘルベル カノン」やマイアミ・サウンド・マシーンの「コンガ」、ブルーハーツの「リンダリンダ」などをテープレコーダーで流しながら踊り、そして唄った。それは、旅費を稼ぐために路上で踊るときのお決まりのスタイルだった。

今回の旅で子どもの村に滞在できるのはたった3日間。そのほとんどが雨だったこともあり、私は本部の中に焚かれた火を前におじじやおばば、そして26年ぶりに再会した長女のちこと、初めて森で会った次女のあっことたくさん話をした。
12歳で訪れた私は、ここでの生活がただただ楽しかった記憶しかない。
学校にいっていなかったため同い年の友達と遊ぶのはとても新鮮で、大人も子どもも奄美の共同生活の暮らしぶりや踊りの旅をしていることに関心を持ってくれたことも嬉しかった。
訪れたのがキャンプの終わり頃だったので、まもなくして森を出ておじじたちの家へと戻り、残った数人で10日間ほど一緒に暮らした。みんなの畑や野菜の発送作業を手伝い、その傍ら山道さんに教わったアイヌの刺繍や奄美で覚えた五色編みのうでわの作り方を教えた。そうした日々の中で自然にちこや仲間たちとぎゅっと仲良くなり、滝西での時間はあっという間に過ぎていった。

あれから26年が経った。ちこは滝西にとどまって農家となり、あっこは東京で暮らしながら夏になると長期休みをとって子どもの村を手伝いにやってくる。同じときの長さの中で、二人はそれぞれの道を歩んだ。
私たちはたき火を囲みながら語り、ときにふっと静寂に身をゆだねる。心の奥に沈んだ名もなき追憶の影を透かすように火をみつめ、言葉を紡いでいく。
横浜でひまわり文庫を開いていたおじじが、なぜその病弱なからだで極寒の滝西へ移り住み、子どもの村を始めたのか。それにちこはどんな想いで関わり、支えてきたのか。そんな家族の考え方の変化や行動を、次女のあっこはどう受け止めていたのか。

ちこやあっこと話すまで、彼女たちはただただ森が好きで、家族や仲間たちと和気藹々にやっているのだと思っていた。あの場にあっこがいなかったことも気にも留めていなかった。でも話していく中で彼女たちが選んでいた道の険しさや葛藤を知り、それでも子どもたちが楽しめる場所になるようにと、懸命に子どもの村をつくってくれていたことを知った。
あの頃の私は幼く、こどもの村に関わる人たちがどんな想いでいるのか想像すらしなかった。そして人に共感するには、自分がいる世界があまりにもカラフルだった。
いやでたまらなかった学校をやめ、日本中をヒッチハイクで旅してまわり、これ以上ないほどの自由を満喫していた。旅で出会うすべてが楽しい。浮かれていた私には、人の悩みは聴こえてこなかった。

でもそんなお気楽な時代も、北海道の旅を終えてから一変した。
仲の良かった奄美の友人がいじめによって自殺し、実家のコミューンでは「ヒッピー出て行け」と地元住民や右翼による追い出し運動が過激化し、家がダンプカーで壊され義父が瀕死の重傷を負った。
学校を辞めたことで生じていた集落との微妙なズレは歯止めが利かないほど増幅しており、渦のように私たちの暮らしをのみこんだ。
大人たちは不当な追放運動に対して裁判を始め、母ミオは現状を訴えるべく全国各地で講演し、署名を集めた。6番目の子どもである勇魚が生まれたばかりなこともあって、私は子守りをしながらミオに付いてまわった。奄美に帰ると右翼は依然として家の隣に建てたプレハブに住みながら朝から晩まで軍歌を流し、子どもたちは外出時に防犯ブザーを持ち歩くなど常に緊張を強いられていた。そして私は15歳のときに和太鼓を習うため島を出る決心をし、翌年からその後20年続く津軽三味線の修行生活へと入っていった。

ちこやあっこと会わなかった年月の中で、かつては聴こえてこなかったものを受け入れる、その準備くらいはできていたような気がする。
ときの長さは、人との関係を疎遠にもしまた濃密にもする。私たちの場合は、この26年という空白の時間が必要だったのかもしれない。

森での最後の夜には、みんなの前で三味線を弾かせてもらった。お世話になったおじじとおばばに、この森の中で今度は津軽三味線を聴いてもらいたいとかねてより思っていた。
小雨が降り、深く澄んだ森の中でこうこうと焚かれる真っ赤な火。あの日踊りをおどったこの場所で、重ねたときの長さを埋めるように漆黒の空に向かって弦をはじいた。

おじじのお話
森の中で
森の子どもの村のみんなと


北海道愛別町にて

88年の北海道の旅で知り合い、島を出て埼玉に越してからはよく関東で会っていたなぎちゃんの家に行った。
さきの旅では二風谷の山道さんと別れた後、私は旭川にいるポンの友人ミチを訪れた。そこで出会ったのがミチの娘であるなぎちゃんだ。年が同じであった私たちはすぐに仲良くなり
奄美へ帰ったあともしばらくは文通していたが、自然と途絶えてしまった。それから10年程たったある日、埼玉で一緒に暮らしていたポンが「なぎに会ったぞー」といって帰ってきた。遊びにいった祭りで偶然なぎちゃんに会い、住所と電話番号を聞いてきてくれた。私は早速連絡をとり、旭川から東京に移り住んでいた彼女と会った。二人の関係はそこから再びはじまった。
なぎちゃんと一緒にいると、いつもどこか居心地のよさを感じた。それと同質のものを最初に会ったときも感じていたのはなんとなく記憶にある。彼女とはその後も旅行にいったり、お互いに結婚してからも家を行き交うなど関係はずっと続いていった。

なぎちゃんはいま実家がある愛別町に戻ってきていて、子育てをしながら看護士になるべく猛勉強中。キッチンの壁には料理のレシピではなく、身体の各器官の名前がびっちり書き込まれた紙が貼ってあった。
そんな大忙しな彼女が、その貴重な時間を削って近所のお寺「円明寺」にてライヴの企画をしてくれた。小さなお寺でこじんまりライヴをするのかと思いきや、とても大きなお寺を会場に50名もの地元の方々が聞きにきてくれた。
次の日には、なぎちゃんの息子も連れてみなで旭山動物園に。チンパンジーを毛穴まで見える距離で眺め、泳いでいるカバの裸体を真下から覗き込む。子どもたちも仲良く一緒に大興奮な時間だった。

年を重ねることで、人は周りの環境だけでなく自らもどんどん変わっていく。その中で変わらずに付き合い続けられる人がいる、それは私の中に変わらぬなにかがあるということなのだろうか。

円明寺にて
娘と3人で
なぎちゃんと息子と


北海道石狩市増毛にて

北海道での旅もいよいよ残りわずか。私たちは旅の最後に、増毛にあるさとちゃんの宿を訪れた。
さとちゃんとの出会いは岡山だ。震災後2歳と5歳の娘をつれて母子避難した岡山県西大寺。最初の一ヶ月は祖父の家を間借りさせてもらったが、その後近くにアパートを借りて本格的な移住生活に入った。元夫からの仕送りはほとんどない中で、なんとかこの新しい地で生活をしていかなければならない。津軽三味線で食べていけるとも思えなかったので、職安にいって仕事を探さなければと考えていた。

そんなある日、ポンの友人と名乗るヒロシさんから突然連絡が来て、西大寺には「の村」という安くて美味しい定食屋さんがあることを教えてくれた。さっそく行ってみると、優しい味の家庭料理が500円程度で食べられる。次第に娘たちと通うようになった。その食堂の店主がさとちゃんだった。

のむらに通ううちに常連さんの次郎さんと知り合いになった。むかし津軽三味線を習っていた次郎さんは、私に津軽三味線を教わりたいと言ってきた。そうして家の近くに場所を借りて三味線教室を開講し、次郎さんは岡山での私の一番弟子となった。またのむらに置いておいた私のチラシを見た岡さんが連絡をくれ、津軽三味線の演奏の依頼をしてくれた。次郎さんや岡さんはそれからもたくさんの人を紹介してくれ、弟子の数もライヴの数も次第に増えていった。
のむらがつないでくれた人の縁のおかげで、私はいまこうして岡山で子ども2人を育てながら三味線一丁で生きていくことができている。

そんな大恩があるのむらだが、店主であるさとちゃんとはちゃんと話したことがあまりなかった。いつももくもくと奥のキッチンで料理を作っていたからだ。
今回泊まった増毛の宿(正確には友達だけを泊めてもてなしているので宿ではない)で、初めてじっくりとさとちゃんと話をした。実は旦那さんはポンのことをよく知っていたこと、実家であるこの家と岡山の西大寺を季節ごとに行き来していること、増毛では海岸で汲んできた海水と拾ってきた薪で塩をつくっていること、刈りたての羊毛を買ってきては家で毛糸に紡ぎ、それを家の周りにある草木で染めて帽子やニットを編んでいること、岡山に行くときは家の周りで育てた野菜を大量に車に詰め込んでのむらの材料にしていることなど、ワインを片手に尽きぬ話を聞いた。

私たちは次の日の早朝に増毛を出て小樽港へと向かい、新潟行きの新日本海フェリー「ゆうかり」に乗船した。来た時と同じ「らいらっく」がよかったと寂しげに言う長女だが、日本海が一望できる大浴場に続けて3回も入るともうケロッと元気になっていた。

さとちゃんの家の前で