家族で広島へ 〜原爆資料館にておもうこと〜

台風一過の秋晴れに家族で広島へ。各駅停車、安〜いゲストハウス、沢山の外国人に『アジアの旅を思い出すね〜』と子どもたち。
初めての原爆ドームや資料館、お腹の中で被爆したというボランティアガイドの三登さんのお話に、娘たちは最近読んだ『はだしのゲン』が重なり複雑な思い。
学校を休んじゃったけど、ぎゅっと詰まった充実した学びの旅になりました。

以下は、広島の旅に同行した渡辺が原爆資料館に行って感じたことをまとめましたので掲載します。

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広島の原爆資料館へと足を運んだ。

資料館へ入る前によった原爆ドームでいろんなお話を聞かせてくれたボランティアガイドで、胎内被爆者である三登さんが言っていた通り、二階三階は教科書に書いてあるような核兵器の成り立ち、核廃絶に向けた世界の動きで、ここでなくても分かるものばかりであった。
また三登さんが被爆の状況をかなり網羅していて分かりやすいと一押ししていた15分ほどの被爆者の証言ムービーの上映室は、エレベーターの裏側のコインロッカーのさらに奥という、よく探さないと分からない場所にあり、館内には修学旅行生や外国人観光客がひしめくようにいるにも関わらず、私たちの他に2名しか見る人がいなかった。
資料館内を一通りみての感想。
一番心が締め付けられたのは、爆心地から800メートルの地点で被爆し、亡くなった中学一年の女学生たちの日記。彼女たちは学徒動員として建物疎開作業に従事させられていた。そして彼女たちが亡くなる前日8月5日に記した日記が残っている。

石崎睦子(1年4組)さん

「8月5日 日曜日 晴
起床 午前五時〇〇分 就床 午後九時〇〇分
学習時間 二時三十分 手伝 ふき上げ
(略)午後 小西(こにし)さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、皆んなよく浮くなと思ふとなさけなかった。今日は大へんよい日でした。これからも一日一善と言ふことをまもらうと思う」

梅北トミ子さん(1年4組)

「8月5日 日曜日 晴
起床 午前六時二分
学習時間四時三分 手伝 お守り、掃除、はきとり、風呂たき洗濯、食事片付
(略)今日美智子(みちこ)を私が風呂に入れたので、喜んでゐた。お母さんだと水をとばせばしかられて、私だと一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに、味をつけて、こしらへたので、お父さんも、お母さんも、おいしいゝと言はれた。
一生けんめいすると、何でも面白いと思った」

当たり前に過ぎていくはずだった8月6日。「モンペに麦ワラ帽、肩かけカバンといった姿で「行ってきます」とあいさつして出かけていった」彼女たち。睦子さんやトミ子さんともに建物疎開に動員されていた県立広島第一高等女学校の1年生は、約220名全員が亡くなった。
彼女たちは爆発とともに即死したか、大けがを負った後、苦しみながら亡くなっていった。

爆心地から少し離れたところの遺体は全身火ぶくれのような姿であり、爆心地に近づくほど全身が炭化し黒こげであったとある被爆者が証言していた。
こころを突き刺すようなその風景が、彼女たちの最後とかなさる。

あまりにむごく、壮絶な最後は、彼女たちが送ってきた歩みからあまりに乖離している。戦時下という緊張を強いられた暮らしの中で、彼女たちは小さな幸せを見つけようとしていた。それがある日突然、一発の爆弾が、なにが起こったかも分からぬまま、彼女たちを黒こげの死体へと変えた。

どんな理屈を並べようと、彼女たちの死を正当化することなど決してできない。

しかし一方で、戦争は、彼女たちの死を正当化する大きな力を付与する。
そこでは彼女たちの死は、作戦の成果や被害の受容度としての「1」となり、想像力、共感力を超えたところで物事が決まっていく。
あの日、8時15分という時間に広島の中心地に落とされた原爆。米軍は事前の調査で、その時間帯が郊外からたくさんの人が仕事のために市街地に集まり、そして朝礼などで人が一番外に出ていることを知っていた。だから原爆に成果がもっとも現れるようにその時間に落としたのだ。子を失った母の悲しみは決して議題にのぼることはない。

私たちの戦争や原爆に対する記憶は日に日に薄れ、そして薄めてられていく。
原爆ドームでガイドしてくれた胎内被爆者の三登さんは、本当に伝えなくてはならない大事なことがどんどん資料館からなくなっていくと言っていた。最近では、被爆の現状を子どもたちにも分かりやすく伝える「被爆再現人形」が姿を消した。資料館内には、天井に設置されたプロジェクターから照射された海のような映像が大きな白い天板の上に映し出され、その上に他言語に対応したタッチパネルが整然と並べられたりと、魅せ方はどんどんきれいになっている。
きっと2018年の完成を目指して改修工事をしている本館は、もっと奇麗な展示の仕方になっているのではないか。大事なことは巧妙に間引かれ、目を引く美しい魅せ方にどんどん置き換わっていく。

私たちが来館したときもたくさんの修学旅行生たちが来ていた。しかし彼らはどの程度この資料館で、原爆の、戦争の実体を理解できるのか。
大事なことは簡単には転がっていない。私たちはたまたま原爆ドームで三登さんに会い、話を聞けたからこそ理解を深めることができた。
広島の原爆から連想される、黒こげの死体や血みどろの肌を露出した被爆者の写真。女学生たちの日記は、そのあまりの悲惨さと、平和な暮らしを享受する私たちの感覚とを結ぶかすかな手がかりだったのだと思う。そしてこの日記が、目を引くテクノロジーにとって変えられてしまう日が来るのかもしれない。

参考文献
https://www.google.com/culturalinstitute/beta/exhibit/8%E6%9C%885%E6%97%A5%E3%80%81%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98/ARWy3GEu?hl=ja
http://www.sankei.com/west/news/170805/wst1708050047-n2.html